この記憶は
忘れようとしていた。
いや、忘れた気になっていた。
私のこころの奥のタンスの中に
鍵のついた箱があって
その中に閉じ込めていたはずだった。
私はそう
米軍基地に面接を受けにいっていたのだった
知らなかった。
英語で面接なんて
日本語じゃないんかい
私の他にも
面接を受けている人がいた
男性(30)とフィリピン系の女性(48)だった。
( )内の数字は私の脳内が算出した憶測の年齢だ。
私の面接は候補者3人対面接官1人という集団面接スタイルだった。
その時点でびっくりだった。
(同時に面接って雑だな・・・。)って思ってしまった。
それは、さておき。
結論から言うと私は一言も英語を発さなかった。
私が発した言葉は、
”ア・・・・アイ・・・すぃんk”
( I think …. と言いたかったらしい。)
英語になっていないので、英語とはカウントしない。
もはや日本語でもない。
面接官に言われる。
『君はもういいから。男性(35)さんはいかがですか?』
(それすら聞き取れない)
男性(37)も、フィリピン系の女性(48)も
英語でしっかり受け答えをしていた。
面接終了後。
男性(49)はそそくさと帰ってしまった。
その後、とぼとぼと帰路についていると
「オツカレサマダッタヨーー」と後ろから声が聞こえた。
一緒に面接を受けていたフィリピン系の女性(48)だろう。
私は誰とも話したくない。そんな気分だった。
それくらいどん底まで落ち込んでいたのだった。
しかし、肩を
ポンポンポンポンポンと高速で叩かれたため
振り向くと、
フィリピン系の女性(48)が半泣き状態の俺に向かってこう言った
『私も日本語勉強してた時は、言葉が出てこなくて
基地の外で働こうとしたけど、ウマくイカナカッタ』
『だからトッテモ辛いの分かる。』
『けど、練習すればちゃんと話せるようになるよ。』
『まだ人生これからなんだから、これで嫌になって諦めちゃダメ。
この経験をバネにして、頑張ってね。』
半泣きの私は全泣きに進化するところだった。
後にも、先にもフィリピン人の女性はなんでこんなに会ったばっかりの人に優しいのだろうと、心が温まることエピソードが多い。
———-(数か月後)———————–
後日、同フードコートの別の店舗に凝りもせず応募し、面接の約束を取り付けた。
あんだけコテンパンにやられたのに、同じフードコートの別の店を受けてみたのだ。
自分でも思う鋼のメンタルだと。
しかし、あのフィリピンの女性(48)からの言葉が私の背中を押してくれた。
面接はもちろん、英語を想定して練習をしてきた。
バッチリだ。
私に隙は無い。
さぁ来い!!!!!!!
・・・面接は全て、日本語だった( ^ω^)
カー カー カー (カラスの鳴き声)
数か月後、私はめでたく採用された。
そして、その後、
アルバイトにも慣れてきた頃、休憩室でフィリピン人の女性(48)と再会。
私は、しっかり練習してきた英語でこう伝えた。
”Thanks to you, I am able to work here.”
(あなたのおかげでここで働くことができました。)
すると、
『英語上手になったね!』
と肩をポンポンポンポンポンポンポンと叩いて、喜んでくれた。
それから約十年後・・・。
また基地で働くとは思っていなかった。
基地の外の平凡な会社で、
毎日クタクタになりながら、擦り減っていくような毎日から、
私は米軍基地への転職を決めた。
そして、今は
基地に転職できて、英語を学びながらも、ゆったりな生活ができて、とても満足している。
本当にありがとう。
まだ、働いているのだろうか。
もう一度伝えたい。
”Thanks to you, I am able to work here.”
(あなたのおかげでここで働くことができました。)